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コナンとワンピに愛を注ぐ。
4つ葉のクローバーに目がない。
寝たがり。
京都好き。
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高校卒業直後 男女
もう、気付いたろう 目の前のドアの鍵を
受け取れるのは 手の中がカラの時だけ
♪ BUMP OF CHICKEN 『同じドアをくぐれたら』
*************************
静かな独白が波の合間を縫うように流れていた。
冬の終りを孕む潮風が悠然と言葉を虚空へ運び、その熱はゆっくりととぐろを巻いて舞い上がる。
引き止めるように揺れるスカートの橙が空とも海とも取れる青に良く映え、真史は眩しげに目を細めた。
『ハムレット』第三幕第一場第四独白。
朗々と大気を揺さぶるその声は常の由美子のそれよりも力強く鼓膜を刺激する。
真史はそんな由美子に記憶の中の己を重ね、静かに目を閉じた。由美子から立ち上る熱が真史の瞼を焦がす。
懐かしく愛しい世界が、刹那真史を覆い尽くし、抱えた小さな花束が与えられた圧力にカサリと鳴った。
「美しいオフィーリア、妖精よ。君の祈りに我が罪の赦しも加えてくれ」
崖から白い海を見下ろし、由美子は己を静めるように細く息を吐く。
色褪せた台本を閉じ、真史へと向き直った由美子はひたすらに穏やかだ。
その瞳は何の狂気も迷いも映してはおらず、真史へと伝染した熱も最早感じられなかった。
一ヵ月ぶりの再会だった。
「殿下、ご無沙汰致しております。いかがお過ごしでいらっしゃいますか」
「これはこれは、ありがとう、元気だ。元気、元気」
大仰な仕草で続く台詞をそのまま交えた二人は、久しぶりだと薄く笑う。
由美子の隣に並びながら視線を移した先には、真史には既に見慣れた海が岩肌を地道に削り続けていた。
いつ見ても変わらぬその景色は逆に月日の移ろいを如実に感じさせる。
「今日は?」
受験勉強という名目で二人が舞台を降りたのは昨年の夏。
ずっと稽古場として利用していた真史がここへ来るのも、そんな真史を由美子が冷やかしに来るのも、当時としては良くある事。
しかし受験生という肩書きを背負った今では実に八ヶ月ぶりに二人で立つ場所だった。
高校を卒業してからは会うこともなく、今日久しぶりに真史が足を向けた先に由美子がいたことは全くの偶然だった。
「役の気持ちを理解する時、一番効果的なのは役と同じ経験をすることよ。
それが叶わないから、役者はその場面を必死に想像するのだけれど。
もし同じ経験が出来るのなら、やってみようと思うでしょ?」
要領を得ない由美子の言葉に真史は眉を寄せて軽く睨む。
それに気をよくしたのか口元を緩めた由美子は、表情を崩さぬまま『あなたの真似をしていたの』と呟いた。
「ねぇ、あなたはいつもここで何をしていたの」
穏やかに揺れる海を見詰めながら、由美子の目は海面に何かを探しているようだった。
そこからは何も遮る物がなく視界に入る全ての海を見渡す事が出来たが、海はどこまでも海だった。
由美子は意を決したようにしゃがみ込み、台本を留めていたホッチキスを爪を使って器用に外す。
真史は由美子の形のいい爪の先が芯の固さに負けてギザギザに削れるのを見ながら、彼女への言葉を探していた。
由美子が何を求めているのかは理解できたが、彼女を納得させる説明が思い浮かばない。
元々何か確かな理由や目的がある行為ではないのだ。
青い海に向かってしっかりと立った由美子が強い風を待って手を離す。
攫われて行く紙の一枚一枚が飛び去る白い鳩のように見えた。
海と空の青、雲の白のコントラストに人工的な白が点々と雑じる。
真史はその無機質な白が自然の中に吸い込まれるように消えて行くのを見るのが好きだった。
「感想は?」
「そうね・・・・何か、予想以上の喪失感があるわ。それから、軽い」
由美子の答えは真史を十分に満足させた。
長く同じ時を過ごすと人の思考回路は似て来るのかも知れない。
真史が感じていた思いを由美子はこの時そのまま口にしたと言っていい。
真史は嫌味な程の格式張った拍手を贈りながら短くブラヴォと呟いて笑った。
「やっぱ、お前とは気が合うな」
「同類みたいに言わないで。私にとって貴方は謎だらけなんだから」
口調や纏う雰囲気を裏切って、由美子の表情は実に豊かでいっそ潔いほどによく動く。
それは役者としての彼女の強みだと真史は思っていた。
感受性の強さ、好奇心の旺盛さ、確かな自信とそれに見合うだけの探究心と理想の高さ。
普段から色々な感情を知る由美子が演じる役に惹きつけられて、真史は必死で生きた感情を探した。
思えば華やかな競争の日々だった。
「本当に、やめるのか?」
「そっちこそ」
「お前ほど未練は残ってないよ」
まだ耳の奥に残る独白が、真史には由美子自身の迷いのように聞こえた。
由美子は静かに海を見ている。
思わず真史がその腕を掴むと由美子はおかしそうに笑ってゆっくりと崖から離れた。
「私は別に舞台に立ちたかった訳じゃない。貴方もね」
「・・・」
「役者の命は、なんだと思う?」
声だろうか、体だろうか、台本や舞台や共演者や演出家や、その他の作り手たちだろうか。
そのどれにも当て嵌まらないと真史は思う。
それは声に近いかも知れない、体にも似ているのかも知れない。
でも、違う。
「言葉・・・いや、想いの方がしっくり来るか」
「嫌な奴。全部お見通しみたいでむかつくわ」
一瞬、口を尖らせた由美子が例えばと続ける。
例えば、この海と空の青がとても似ているのに同じではないことや、
それでも空に浮かぶ雲との対比や海面に浮かぶ偽者の影の揺れる姿が眩しくて自然に顔が綻んで来る事だとか、
そんな些細な幸せを自分が誰かに伝えられたら。伝えた誰かが同じ笑顔を零してくれたら。
「私は、生きてさえいれば成りたいものになれるわ」
伝えたいと思えるものが在れば、それだけで。
そう言って笑う由美子は穏やかで、真史はもう一度賞賛の拍手を贈る。
途端に嫌そうに顔をしかめた由美子の足元で揺れるスカートの裾が光を弾いて、矢張り綺麗だと思った。
生きてさえいれば。
そう由美子が言ったように、世界から想いが消える事などなく、それほどに未知数な感情が溢れているから。
それら全てを伝え終わるまで二人は役者であり、要するに一生役者なのだ。
「生涯一役者って奴?」
「生涯一表現者よ」
「あぁ、同感。やっぱ気が合うな」
今度は由美子から否定の言葉は出なかった。
その代わりと言うように真史が抱えたままの花束を覗き込む。
しばらく香りを楽しんだ後、由美子は思い出したと勢い良く顔を上げて不機嫌に真史を睨んだ。
「そう言えば、まだ答えを聞いてなかった」
「同じ行動を取ったら、そこからどう解釈してどう表現するかは役者が考える事だろ。答えたら面白くない」
「貴方のそう言う所が嫌いなのよ」
由美子の決まり切ったフレーズに一頻り笑ってから、真史は崖の先へと歩き出す。
遥かに続く海原に向き合って、挑むように両手を突き出した。
支えを失った花束が静かに弧を描いて落ちる。
波に浚われる瞬間、微かに音を聞いた気がした。
真史は何も無くなった手を握り絞め、目の前でゆっくりと開く。自由だった。
潰してしまわないように、落とさないように、萎れてしまわないように、封じられていた真史の腕はどこにも力が入る事無くそこに在る。
例えば、この海と空の青がとても似ているのに同じではないことや、
それでも空に浮かぶ雲との対比や海面に浮かぶ偽者の影の揺れる姿が眩しくて自然に顔が綻んで来る事だとか、
そんな些細な幸せの全てを伝えられる言葉が、今ならば掴めるような気がした。
大丈夫だと、真史は小さく呟いて踵を返す。
怪訝そうな由美子にひらひらと手を振って、一度だけ振り返った海は相変わらず白い飛沫をあげ、それでも穏やかに揺れていた。
柔らかさの混じり出した風に向かい、馴染んだ場所や人々と別れ、足元がおぼろげにしか見えなくても。
ここにあるのはただのからっぽの掌。
どこにいても、何をしていても。
いつでも、何かを掴める。
2005年 初春